東京に住み始めてもうすぐ3年になる。
そこで思うのは、「東京の演劇」というものは存在しないということである。
というか演劇状況(環境、作品、集団)を都道府県単位で捕らえるのは、ナンセンスだということに気づいた。
だから、東京都の演劇状況という捉え方では、ほとんどなにも理解できない。
せめて、市町村単位で捉える必要がある。
そして東京では駅単位で捉える必要がある気がする。
杉並区の演劇状況を考えるよりも、高円寺の阿佐ヶ谷の荻窪の下井草の、と考えた方が有効な気がする。
だから、東京の演劇というものは存在しなく、
ただ、下井草の演劇とか阿佐ヶ谷の演劇とかがあるだけなのだと思う。
そして、例えば
大阪の演劇状況といった時に、それは大阪府の演劇のことではなく、大阪市の演劇のことであったりする。
大阪の演劇状況と考えたときに、東大阪とか岸和田とかは想定せれているのか。
だから、大阪市の演劇とか東大阪の演劇とか岸和田の演劇という捉え方をした方が正確なのではないか。
同じく、京都の演劇状況と言ったときに、それは京都府のことではなく京都市のことだったりする。
だから、京都市の演劇とか宇治市の演劇とか福知山の演劇とかで捉えた方がいい。
そして、市区町村単位で演劇状況を捉えた時に重要な要素は、やはり人口である。
100万人都市と50万人都市と20万人都市ではその演劇状況は全然違う。
2012年2月22日水曜日
演劇の中での、フィクションの存在
必要なのは「フィクション」なのではないか?
演劇の特徴として、観客が舞台上のものは「その全てがフィクションである」ということを分かった上で鑑賞している。というものがある。
いや、舞台上というのはフィクションではない、という意見もある。
人間という演劇作品を構成する素材は、どこまで行っても常に現実(ノンフィクション)である、と。
突き詰めて考えると目の前で人間がいることは現実(ノンフィクション)であるが、そこで話される言葉や行動や出来事やその流れは「事前に用意されたもの」であり、作りもの(フィクション)である。
つまり、演劇というのは、「人間という現実(ノンフィクション)を素材として用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」という、なんとも不思議な形式なのだと思う。
それは、ねじれている、と言えるかもしれない。
例えば、漫画は紙にインクで書いてある。
紙もインクも現実である。
だが「絵」という記号と「コマ割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。
アニメは、「キャラクター」という記号と「カット割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。
映画は・・・
スポーツは・・・
話がだいぶそれてしまったが、観客はフィクションを見たいのではないか。
観客をフィクションを観に劇場に足を運ぶのではないか。
と、最近私は考えている。
作品(作り物、フィクション
↑
素材(人間、現実、ノンフィクション
↑
観客
観客が直接目で捉えているのは、人間(出演者)である。
だが観客は、人間というノンフィクションを通して、演劇作品というフィクションを見ている。
で、フィクションを形作るものは何かと言うと、それは話される言葉や行動や出来事やその流れといった「戯曲に属するもの」ではなく、人間なのだと思う。
ノンフィクションである人間が、フィクションを形作るとはどういうことなのかというと、
そこで出てくるのが「演技」というものである。
「演技」とは、演じる技術のことだが、「演技」無しにノンフィクションである人間はフィクションを形作れない。
演じる技術というのは、
他者が、過去に、書いた言葉を、
自分が、今、発話しているかのように観客に感じさせる能力や、
さらに進んで、出演者がまさに登場人物その人だと観客が錯覚してしまうような能力や、
観客という不特定多数の目の前に立つ・視線にさらされることを「ポジティブに受け入れる」能力、
というものがあったりする。
(ここに挙げた能力(演じる技術=演技)を使わない・目指さない演劇作品も、もちろんたくさんある。)
ということで、演劇というのは、
「人間という現実(ノンフィクション)の素材が、演技(演じる技術)という方法を用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」
ものだと私は考えている。
で、観客が持ち帰るのは、フィクションではなくノンフィクションに属するものである。
簡単に言うと、観客は自分の経験や現状に照らし合わせて・引き付けて、何かを受け取る・持ち帰っている。
その何かは、単なるメッセージのときもあれば、感情のときもあれば、人間に対する理解のときもある。
演劇の特徴として、観客が舞台上のものは「その全てがフィクションである」ということを分かった上で鑑賞している。というものがある。
いや、舞台上というのはフィクションではない、という意見もある。
人間という演劇作品を構成する素材は、どこまで行っても常に現実(ノンフィクション)である、と。
突き詰めて考えると目の前で人間がいることは現実(ノンフィクション)であるが、そこで話される言葉や行動や出来事やその流れは「事前に用意されたもの」であり、作りもの(フィクション)である。
つまり、演劇というのは、「人間という現実(ノンフィクション)を素材として用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」という、なんとも不思議な形式なのだと思う。
それは、ねじれている、と言えるかもしれない。
例えば、漫画は紙にインクで書いてある。
紙もインクも現実である。
だが「絵」という記号と「コマ割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。
アニメは、「キャラクター」という記号と「カット割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。
映画は・・・
スポーツは・・・
話がだいぶそれてしまったが、観客はフィクションを見たいのではないか。
観客をフィクションを観に劇場に足を運ぶのではないか。
と、最近私は考えている。
作品(作り物、フィクション
↑
素材(人間、現実、ノンフィクション
↑
観客
観客が直接目で捉えているのは、人間(出演者)である。
だが観客は、人間というノンフィクションを通して、演劇作品というフィクションを見ている。
で、フィクションを形作るものは何かと言うと、それは話される言葉や行動や出来事やその流れといった「戯曲に属するもの」ではなく、人間なのだと思う。
ノンフィクションである人間が、フィクションを形作るとはどういうことなのかというと、
そこで出てくるのが「演技」というものである。
「演技」とは、演じる技術のことだが、「演技」無しにノンフィクションである人間はフィクションを形作れない。
演じる技術というのは、
他者が、過去に、書いた言葉を、
自分が、今、発話しているかのように観客に感じさせる能力や、
さらに進んで、出演者がまさに登場人物その人だと観客が錯覚してしまうような能力や、
観客という不特定多数の目の前に立つ・視線にさらされることを「ポジティブに受け入れる」能力、
というものがあったりする。
(ここに挙げた能力(演じる技術=演技)を使わない・目指さない演劇作品も、もちろんたくさんある。)
ということで、演劇というのは、
「人間という現実(ノンフィクション)の素材が、演技(演じる技術)という方法を用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」
ものだと私は考えている。
で、観客が持ち帰るのは、フィクションではなくノンフィクションに属するものである。
簡単に言うと、観客は自分の経験や現状に照らし合わせて・引き付けて、何かを受け取る・持ち帰っている。
その何かは、単なるメッセージのときもあれば、感情のときもあれば、人間に対する理解のときもある。
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