2012年2月22日水曜日

演劇の中での、フィクションの存在

必要なのは「フィクション」なのではないか?

演劇の特徴として、観客が舞台上のものは「その全てがフィクションである」ということを分かった上で鑑賞している。というものがある。

いや、舞台上というのはフィクションではない、という意見もある。
人間という演劇作品を構成する素材は、どこまで行っても常に現実(ノンフィクション)である、と。

突き詰めて考えると目の前で人間がいることは現実(ノンフィクション)であるが、そこで話される言葉や行動や出来事やその流れは「事前に用意されたもの」であり、作りもの(フィクション)である。

つまり、演劇というのは、「人間という現実(ノンフィクション)を素材として用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」という、なんとも不思議な形式なのだと思う。

それは、ねじれている、と言えるかもしれない。


例えば、漫画は紙にインクで書いてある。
紙もインクも現実である。
だが「絵」という記号と「コマ割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。

アニメは、「キャラクター」という記号と「カット割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。

映画は・・・

スポーツは・・・


話がだいぶそれてしまったが、観客はフィクションを見たいのではないか。
観客をフィクションを観に劇場に足を運ぶのではないか。
と、最近私は考えている。

作品(作り物、フィクション

素材(人間、現実、ノンフィクション

観客

観客が直接目で捉えているのは、人間(出演者)である。

だが観客は、人間というノンフィクションを通して、演劇作品というフィクションを見ている。


で、フィクションを形作るものは何かと言うと、それは話される言葉や行動や出来事やその流れといった「戯曲に属するもの」ではなく、人間なのだと思う。

ノンフィクションである人間が、フィクションを形作るとはどういうことなのかというと、
そこで出てくるのが「演技」というものである。
「演技」とは、演じる技術のことだが、「演技」無しにノンフィクションである人間はフィクションを形作れない。

演じる技術というのは、
他者が、過去に、書いた言葉を、
自分が、今、発話しているかのように観客に感じさせる能力や、

さらに進んで、出演者がまさに登場人物その人だと観客が錯覚してしまうような能力や、

観客という不特定多数の目の前に立つ・視線にさらされることを「ポジティブに受け入れる」能力、

というものがあったりする。
(ここに挙げた能力(演じる技術=演技)を使わない・目指さない演劇作品も、もちろんたくさんある。)


ということで、演劇というのは、
「人間という現実(ノンフィクション)の素材が、演技(演じる技術)という方法を用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」
ものだと私は考えている。




で、観客が持ち帰るのは、フィクションではなくノンフィクションに属するものである。
簡単に言うと、観客は自分の経験や現状に照らし合わせて・引き付けて、何かを受け取る・持ち帰っている。

その何かは、単なるメッセージのときもあれば、感情のときもあれば、人間に対する理解のときもある。

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