2012年7月4日水曜日

2009年9月 『日本国憲法』

『日本国憲法』は2009年9月に京都芸術センター「舞台芸術賞2009」参加作品として初演され、同賞大賞を受賞しました。ありがとうございました。





以下、チラシでの文章。


「日本国憲法」を(脚本化せずにテキストとして)用い、舞台芸術を創作します。
政治的でも教育的でもない観点から「日本国憲法」を取り扱うつもりです。
「大人」よりも、「こども(これから大人になる人たち。小学生や中学生)」に向けて、創作します。



私は作品を通して政治的メッセージを発信したいと思ってはいない。
自国の憲法がどうあるべきだとか主張したいわけではない。
右翼でも左翼でもない。

ただ、無知を自認している。

この国での憲法改正議論は、選挙活動のパフォーマンスの域をでず、世論の盛り上がりもない。
それどころか、自国の憲法をまともに読んだことすらない人は多い。(私もだが。)

そもそも何が書かれているかを知らない。
だが憲法は、この国のルールとして確かにある。

だから、「とりあえず、知ろう。」
これがこの作品の基本スタンスとなる。

知らないという選択は確かにありうる。
だが、知りたいと思ったときに、そこにアクセスすれば確実に知れる、という場所を作っておきたいのだ。
あそこに行けば知れるけど、知りたくはないから行かない。という選択なら、それはありだ。
しかし、知りたいのにどこに行ったら知ることができるのかが分からない、この現状はよくない。

だから、「日本国憲法の窓口になる。」ということだと思う。
日本国憲法(前文、1条~103条)を全てを使って創作し、発表するということはそういうことだと思う。




小嶋一郎 演出作品 『日本国憲法』  
(京都芸術センター「舞台芸術賞2009」参加)

テキスト:日本国憲法
演出:小嶋一郎
出演:黒田真史、山本清文、山本称子、佐々木琢

舞台監督:堀田誠(CQ)  照明:根来直義(top.gear)
空間デザイン:小嶋一郎       チラシデザイン:イトウユウヤ
演出補佐:大山晴子     制作:前田佳子
企画・製作:旧劇団スカイフィッシュ


●日程:09年9月25日(金)19:00 
26日(土)14:00 


・日時指定・自由席 ・受付開始=開演60分前 ・開場=開演30分前


●チケット:一般 1000円  学生 500円(要学生証) 



会場 京都芸術センター フリースペース 

2001→2008 (大阪時代)


活動履歴(主な演出歴)


2001年7月『区切られた四角い直球』 作:鈴江俊郎       会場:近畿大学E館(大阪)



2002年2月『ジュリエットプラント』 原作:W・シェイクスピア  会場:近畿大学アート館(大阪)



2003年8月 『HM入門』        原作:H・ミュラー    会場:金沢市民芸術村(石川)



2004年11月 『ひとんちのにおい』  作:小嶋一郎        会場:IST零番館(大阪)



2006年8月 『MESSAGE』       作:松山賢史        会場:芸術創造館(大阪)


2007年2月 『森谷修治』      作:松山賢史       会場:精華小劇場(大阪) 



2007年4月 『春の物忘れは、かなしい』作:工藤千尋      会場:ウイングフィールド(大阪)



2007年7月 『だれか来る』     原作:ヨン・フォッセ   会場:利賀特設野外劇場 

利賀演出家コンクール2007参加



2007年11月 『作家・松山賢史』   作:松山賢史       会場:アトリエS-pace(大阪)




2008年3月 『適切な距離』      作:松山賢史        会場:ウイングフィールド(大阪)



2008年7月 『適切な距離・日記編/スパムメール編』作:松山賢史 会場:etw(京都)



2008年11月 『適切な距離ワークインプログレス2』 作:松山賢史 会場:ウイングフィールド(大阪)



    
       日本演出者協会主催「若手演出家コンクール2008」優秀賞受賞

2012年6月21日木曜日

「振付」の検証

作品をより良くする方法として、いろいろあるとは思うのですが、

「振付」について捉え直してみることにしました。

とりあえず「振付」とは何かという話ですが、

・再現性―何度でもできる。
・交換可能性―出演者が変更してもできる。

この2つの要件を満たさないと、「振付」とは呼べないのではないか、と考えました。

先日作った「No pushing」の場合、再現性については、何度も稽古をしているので、ある幅の中での再現性は確認できている。

交換可能性については、未確認なので、今度、初演とは別の出演者に振付て踊ってもらうことで、交換可能性があるのかないのかを検証するワークショップをやることにしました。


で、そのワークショップですが、
初演とは条件がいろいろ違います。
以下、違いを挙げてみます。
(ちなみに初演の「No pushing」は男・女の出演者で、テキストが事前に存在し、発話もする作品でした。)

1、出演者の性別(初演は男・女、WSは男・男)
2、出演者の持つパーソナリティが違う。
3、テキストの持つ人物造形と物語(初演は理解している。WSはテキストの存在を知らされていない。)
4、発話する言葉が違う。(初演はあるテキストの言葉。WSはおそらく別の種類の言葉)

5、稽古総時間が違う。(WSは3時間のみ)
6、振りの生まれる過程を共有しているかいないか。(WSはすでに存在する振りを手渡して踊ってもらう。)

と、まあ、以上6項目は条件面で違う点である。
なので、ワークショップをやった結果、浮き彫りになるのは、

1、男・男のペアだと行為自体はどう見えるのか?また2人の関係性はどう見えるのか?
2、このWS参加者だから見えてくる「物語」はどんなものか?
3、作品におけるテキストの役割。テキスト無しで(人物造形と物語無しで)、人と振付のみでどこまで面白くなるのか?
4、発話という行為が発話者に及ぼす影響。発話される意味内容が相手に及ぼす影響。観客からどう見えるか?

(5と6に関しては、作品をより良いものにする作業において、現在重要視していないポイントなので、ちょっと置いておく。)

1と2は出演者が変わると、どうなるかという問題。(振付の交換可能性を検証する)
3はテキストの存在、という問題。(逆に言えば、振付の持つ強度を検証できるはず)
4は発話の役割・影響という問題。


うーん。事前に考えられるのはこれくらいでしょうか。
ワークショップが終わったらレポートを書きます。




No pushing

SNACというスペースが主催したスモールステップという企画に参加し、
「No pushing」というタイトルの15分の身体表現作品を発表しました。(まだ中間発表でしたが。)

「No pushing」
演出 小嶋一郎
出演 黒田真史 山田宗一郎

2012年5月27日(日)15:00~  @SNAC

(スモールステップについては下記リンク参照。)
http://snac.in/?p=2184


写真は某所で稽古をしたときの写真です。
子供たちはいい笑顔をしていました。



2012年6月19日火曜日

声の表現

少し前に、三条会の「ひかりごけ」を観に行った。@スズナリ。

「声」の表現というものを考えさせられた。

シンバルのようなドラのような、体を具体的に「振動」させて、声を響かせているような。

「技術」があった。

2012年2月22日水曜日

東京の演劇、不在論。

東京に住み始めてもうすぐ3年になる。

そこで思うのは、「東京の演劇」というものは存在しないということである。

というか演劇状況(環境、作品、集団)を都道府県単位で捕らえるのは、ナンセンスだということに気づいた。

だから、東京都の演劇状況という捉え方では、ほとんどなにも理解できない。

せめて、市町村単位で捉える必要がある。

そして東京では駅単位で捉える必要がある気がする。
杉並区の演劇状況を考えるよりも、高円寺の阿佐ヶ谷の荻窪の下井草の、と考えた方が有効な気がする。

だから、東京の演劇というものは存在しなく、
ただ、下井草の演劇とか阿佐ヶ谷の演劇とかがあるだけなのだと思う。

そして、例えば
大阪の演劇状況といった時に、それは大阪府の演劇のことではなく、大阪市の演劇のことであったりする。
大阪の演劇状況と考えたときに、東大阪とか岸和田とかは想定せれているのか。
だから、大阪市の演劇とか東大阪の演劇とか岸和田の演劇という捉え方をした方が正確なのではないか。

同じく、京都の演劇状況と言ったときに、それは京都府のことではなく京都市のことだったりする。
だから、京都市の演劇とか宇治市の演劇とか福知山の演劇とかで捉えた方がいい。


そして、市区町村単位で演劇状況を捉えた時に重要な要素は、やはり人口である。
100万人都市と50万人都市と20万人都市ではその演劇状況は全然違う。

演劇の中での、フィクションの存在

必要なのは「フィクション」なのではないか?

演劇の特徴として、観客が舞台上のものは「その全てがフィクションである」ということを分かった上で鑑賞している。というものがある。

いや、舞台上というのはフィクションではない、という意見もある。
人間という演劇作品を構成する素材は、どこまで行っても常に現実(ノンフィクション)である、と。

突き詰めて考えると目の前で人間がいることは現実(ノンフィクション)であるが、そこで話される言葉や行動や出来事やその流れは「事前に用意されたもの」であり、作りもの(フィクション)である。

つまり、演劇というのは、「人間という現実(ノンフィクション)を素材として用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」という、なんとも不思議な形式なのだと思う。

それは、ねじれている、と言えるかもしれない。


例えば、漫画は紙にインクで書いてある。
紙もインクも現実である。
だが「絵」という記号と「コマ割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。

アニメは、「キャラクター」という記号と「カット割り」という方法を用いていて、その内容は作りもの(フィクション)である。

映画は・・・

スポーツは・・・


話がだいぶそれてしまったが、観客はフィクションを見たいのではないか。
観客をフィクションを観に劇場に足を運ぶのではないか。
と、最近私は考えている。

作品(作り物、フィクション

素材(人間、現実、ノンフィクション

観客

観客が直接目で捉えているのは、人間(出演者)である。

だが観客は、人間というノンフィクションを通して、演劇作品というフィクションを見ている。


で、フィクションを形作るものは何かと言うと、それは話される言葉や行動や出来事やその流れといった「戯曲に属するもの」ではなく、人間なのだと思う。

ノンフィクションである人間が、フィクションを形作るとはどういうことなのかというと、
そこで出てくるのが「演技」というものである。
「演技」とは、演じる技術のことだが、「演技」無しにノンフィクションである人間はフィクションを形作れない。

演じる技術というのは、
他者が、過去に、書いた言葉を、
自分が、今、発話しているかのように観客に感じさせる能力や、

さらに進んで、出演者がまさに登場人物その人だと観客が錯覚してしまうような能力や、

観客という不特定多数の目の前に立つ・視線にさらされることを「ポジティブに受け入れる」能力、

というものがあったりする。
(ここに挙げた能力(演じる技術=演技)を使わない・目指さない演劇作品も、もちろんたくさんある。)


ということで、演劇というのは、
「人間という現実(ノンフィクション)の素材が、演技(演じる技術)という方法を用いて、作りもの(フィクション)を観客に見せる。」
ものだと私は考えている。




で、観客が持ち帰るのは、フィクションではなくノンフィクションに属するものである。
簡単に言うと、観客は自分の経験や現状に照らし合わせて・引き付けて、何かを受け取る・持ち帰っている。

その何かは、単なるメッセージのときもあれば、感情のときもあれば、人間に対する理解のときもある。